ネガティブ女でも人生楽しく生きている。

生き方なんて人それぞれだから。

夢を叶え続ける彼女の叫び

2024年4月19日(金)、私は日本武道館にいた。

LiSAの記念すべき10回目の武道館公演、その晴レ舞台を見るために。

 

LiSAを知ったのはもう随分前だけれど、ライブは去年のLANDERツアーが初めてだった。いや、正確に言うとコロナ禍でのONLiNE LEO-NiNEだ。

以前にもどこかで書いたが、私は長らく在宅オタク(家で映像や音源を聞いて楽しむだけでライブなどには行かないファンのこと)で、LiSAのライブも、行ってみたいなという気持ちはありつつも、勝手が分からないまま行って楽しめるのか?という不安もあり、なかなか行けずにいた。

そんな中で開催されたオンラインライブは、私に衝撃を与えた。あれからもう3年以上が経つが、あの時の胸の高鳴りは今でも忘れない。

ライブにかける情熱とか、歌に込めた魂とか、楽しいという気持ち、楽しんでほしいという気持ち、とか。画面越しでも十二分に伝わってきた。これがLiSAのデート(LiVE)かと。今までラブレター(CD)だけで満足していたのに、一度デートを味わってしまえばもう沼である。現場に行きたい、そう思わずにはいられなかった。

 

そして昨年末、3年越しにようやく参戦が叶ったLANDERツアーで、私は泣きっぱなしだった。

LiSAが登場した瞬間から、なぜだか涙が止まらなくて。冷静になると、やっと会えて嬉しい気持ちが溢れたとか、1曲目「NEW ME」(ここ最近で私が一番好きな曲。これについてはいずれ別記事で書きたいと思っている)のイントロが聞こえた時点で気持ちが高ぶったとか、うわぁ~本物だ~!って興奮したとか……そういうことかなって思わなくもないけど、もっと複雑な感情だったような気もする。言葉にしがたいこの感じは、ライブに行かなければ分からなかっただろうなと思う。

「シフクノトキ」で幸せを感じ、「一斉ノ喝采」で会場の一体感に震え、「dawn」で迎えた眩しい幕開けに号泣……。アンコールは笑顔で、と思ったのにモニターに涙目のLiSAが映ってまたもらい泣き。私こんなに泣き虫だったかなってくらいずっと泣いていた。

 

ライブの最後に武道館ライブ「i SCREAM」の開催が発表され、私はその日のうちにファンクラブに入会し、先行チケットを申し込んだ。そんな経緯で参戦したのが先週のライブである。

 

今回のライブは、ライブタイトル「i SCREAM」の通り、「アイスクリーム屋さん」をモチーフにしたセットで、色んな“i”を叫ぶ(SCREAM)ものだった。こんな鬼セトリ2日間やり切るLiSAの身体は一体どうなっているんだ……普通の人がカラオケでこのセトリ通り歌ったら半分くらいで疲労困憊なんじゃなかろうか……と思うほどとにかく叫ぶ曲が多々。LiSAッ子たちの合いの手にも力が入る。

SNSで感想を拝読すると、今回のライブは“古参が喜ぶセトリ”だったらしい。調べてみると、確かに随分前の曲もあったし、B面曲も多めで、熱心なファンほど「これを今ライブでやってくれるとは!」みたいな感動とか、色んな思いが溢れるライブになっていたのだろうなと思う。

では、まだ沼の浅瀬にいる私はつまらなかったか?否。これ以上無いほど楽しかった。

なんてったって、ライブにはLiSAの世界が詰まっていたから。LiSAの歩んで来た道、考えてきたこと、思い描いた景色、そういうものが全部詰め込まれたような、彼女の言葉を借りれば、たくさん“ねりねり”された、そんなライブだった。

 

こんなライブができるLiSAだから、私は彼女のことをこんなに好きになったんだよな。そんなことを考えたりしていたら、「I’m a Rock star」でまんまと泣いてしまった。曲の終わりで、「I’m a Rock star!」と叫ぶ姿を見て、努力して夢を掴んだ人って、なんて格好良いんだろう。なんて美しいんだろう。なんて眩しいんだろう。――色んな想いがこみ上げてきた。そう。LiSAは唯一無二のRock starだ。

 

ライブ中に「初めてこの場所(武道館のステージ)に立った時、10回も立てる未来があるなんて思っていなかった」「それが今は帰ってくる場所になった」と言っていて、LiSAは夢を叶えたんじゃなくて、叶え続けているんだと気付いた。歩み続けているからこその10度目の武道館。「ただいま」と言える武道館なのだ。それってシンプルにスゴいことではないか。

 

スゴいものを浴びた後の心地良い疲労感。ライブ後はちょっと放心してしまった。

これからもLiSAが生み出す音楽を聴いていたいし、魅せてくれる景色を見たい。そんな風に思える最高のライブだった。おかげでその後2日間はペンライトを振っていた両腕が筋肉痛だった(軟弱)。

やっぱり私はLiSAが魅せてくれる世界が好きだし、そんな世界をねりねりできるLiSAのことが大好きで、心から尊敬している。

 

色々語ってしまったが、とにもかくにもLiSAのカッコイイもカワイイも全部詰まった最高のライブは本当に楽しかった。まだまだ余韻の中にいるけれど、秋にはアリーナツアーが始まる。今度のツアータイトルは「カクテルパーティ」。これまたワクワクが止まらない。どんな風に遊べるのか楽しみだ。嗚呼、楽しみがあるって素晴らしい!

 


*「LiVE is Smile Always~i SCREAM~」in 日本武道館 セットリスト

1.LOSER~希望と未来に無縁のカタルシス
2.ROCK-mode’18
3.ANTIHERO
4.confidence driver
5.リスキー
6.覚☆醒☆屋
7.L.Miranic
8.“PROPAGANDA”
9.愛錠
10.ダンスメドレー
・ノンノン
・エレクトリリカル
・WiLD CANDY
・スパイシーワールド
11.Rally Go Round
12.I’m a Rock star
13.LiTTLE DEViL PARADE
14.一斉ノ喝采
15.REALiZE
16.Psychedelic Drive
17.Shouted Serenade
18.ADAMAS
19.Hi FiVE!

アンコール

1.HELLO WORLD
2.halo-halo
3.Rising Hope

なぜ友人の結婚式で泣いてしまうのか

現在アラサーの筆者、人生で何度目かの結婚ラッシュ真っ只中である。
私は結婚式特有のあの雰囲気が好きだ。華やかで、厳かで、幸せに満ちている、あの空間は何物にも代えがたい。

少し前にも友人の結婚式に参列してきたのだが、友人が入場してきた途端、涙で視界がにじんだ。友人の人生で一番幸せな瞬間を収めようと一眼レフカメラを持って きたのに、これではシャッターが切れない。 必死に顔中の筋肉に力を入れていたので、かなり険しい表情で出迎えてしまったかもしれない。友人よ、すまない。あれは涙をこらえている顔だった。

ここでふと思う。なぜ友人の結婚式で泣いてしまうのか?
母への手紙を読むシーンとかならともかく、入場なんて序盤も序盤。まだ始まってもいないのに涙が出るのはなぜだろう。


そもそも「泣く」とは一体どういうことなのか。
ちょっと調べたところによると「泣く」には3つの役割があるらしい。
①目の乾燥を防ぐ
②目に入った異物を取り除く
③感情の高ぶりを発散する

①②は生理現象なので、今回のケースは③に当てはまるものであることは明らかだ。
この③は、人間だけが流す涙らしい。

額の中心の位置にある前頭前野というところが興奮すると、 それが引き金になって泣くというシステムがあると考えられているそう。この前頭前野が人間はとても発達しているから、③のような涙を流せるということだ。

前頭前野は他人に「共感」することで興奮するようなのだが、私は未婚だから「共感」ではないんだよなぁ。


さらに調べてみると、どうやら人間は泣くことでストレスを発散するらしい。例えば、怒られると強いストレスがかかって、それを発散するために涙を流す、みたいな。
この理屈で考えてみると、抱えきれない感情が自分の中にたまると、それがストレスとなって涙を流す、ということに……? 感情が揺さぶられるって、ある種のストレスだもんな。だからこそ涙活が流行るのだなぁ…ふむふむ。


ここでもう一度、 冒頭の友人入場シーンのことをよく思い出してみる。
入ってきた瞬間、 心から幸せなのだとベール越しでもわかる笑顔が見えた。 その顔を見ただけで胸がいっぱいになった。 他人の幸せってこんなに嬉しいものだっただろうか。
否。大好きで大切な友人だから、こんなに嬉しいんだ。


陰キャで、人見知りで、他人に興味のない私に、 この子のためなら何でもできる! と思えるような友人が出来たことは、どう考えても奇跡だ。 泣いてしまうほど私の感情を揺さぶってくれる友人たちは、間違いなく私の財産だ。
…こんなこと言ったら重いかな。ごめんね、 推しに対しては激重なんだ。(重すぎ)

人生、報われないこともたくさんあるし、 ままならない現実もごまんとあるけど、 素晴らしき友人たちがいるんだから、私は勝ち組だ。なんて、 長い長い余韻に浸りながら思うなどしている。

精一杯シャッターを切って撮れた写真は、 ピントも甘いし構図も上手じゃないけど、 私の感情だと思って大目に見てほしい。

今月も参列の予定がある。きっとまた泣いてしまうだろうけど、この涙は私にとってとても大切で、幸せな涙だ。

 

 

(参考)

Lidea―涙もろいひととそうでない人の違いは? 泣きのメカニズムを脳科学者に聞いた!
https://lidea.today/articles/002354
読売新聞オンライン―【俺はググらない】泣くのは脳からの指令… 有田秀穂さん
https://www.yomiuri.co.jp/kodomo/fromeditor/notice/20200807-OYT8T50029/
医療法人社団 平成医会―「泣く」ことで得られる心身のメリット
https://heisei-ikai.or.jp/column/tears/

自分の思想を他人に押しつけちゃいけないと思うんだけどその辺どう思う?

仕事柄、色々な業界の人と出会ってお話しする機会があるのだが、この間出会った人がなかなかに強烈だったので、その話をしたいと思う。

流石に詳細は書けないので、ぼやっとした内容になってしまうだろうが、ご容赦いただきたい。

 

その強烈だった人というのが、確固たる自分の信念を持った人だった。信念を持つこと自体は別に構わない。むしろ素晴らしいと思う。ふらふら風見鶏してる奴よりよっぽど良い。

しかし、だ。話を聞いていると、「私の考えが正しい。それ以外は間違っている。」という語り口になってきた。確かにこの人の主張そのものは筋が通っているのだが、正直私には賛同しかねる部分もあって、話を聞いているだけで気が滅入りそうだった。

 

何より、仕事だからという理由で、納得できない話に対して「そうですね」としか返せなかったことに凄まじく自己嫌悪。全然そう思ってないのに、猫被ってご機嫌取りの相槌を打って。話を聞き終わった後の帰り道は、悔しさというか、情けなさというか、何とも言えない気持ちで涙が出そうだった。この負の感情をどこかに吐き出したくて、こうして記事を書いている。

 

その人の話を例えて言うなら、「赤ちゃんを育てるには絶対に母乳でなければいけない!みんなそうするべき!」って主張されるあの感じ。母乳で育てたいという気持ちはあっても様々な事情でそれが難しい人というのも世の中にはいるわけで。そういうのを無視して自分の主張を通そうとするような……というのは、私が話を聞くうちにどんどんこの方に対して心を閉ざしてしまったから、良くない受け取り方をしてしまっただけかもしれないが……

私自身が批判されているわけではないのに、なんだか怒られているような気分になったし、すごく疲れてしまった。私はまったく自分に自信が無いので、「自分の考えが正しい」と胸を張って言える人ってある意味うらやましい。

 

全方位に配慮した発言をしろというわけではない。ただ、自分と違う考え方の人もいることを許容してくれたら良いのに、と思うのだ。理解はできなくても、みんな違ってみんな良い、それで良いじゃない。…っていう私の発言ももしかして押しつけになっているのか…?うーん……。

 

無意識かもしれないけど、「正しい意見」を言う人って、発言が攻撃的だと感じる。とくにSNSは。

この人は間違っていて、自分はそれを正してあげている、という意識があるのだろうし、そういう時って快楽物質的なものが出るらしいし、なんかもう止まらないんだろうな。これは憶測じゃなくて、自分の経験からもそう思う。

 

学級委員をしていた中学時代、何かを注意する時って攻撃的な言葉をかけていたと思う(中学時代は黒歴史すぎてあまり思い出したくないのだが)。きっとクラスメイトには嫌な思いをさせたし、だから嫌われたんだろうと今では思うけど、当時はそんなこと考えもしなかった。だって自分が正しいから(当時は自分の正しさに自信を持っていた)。正しいことを言って何が悪いんだって思っていた。

でもある時、友人から「言い方がキツい。傷つく」と言われて、初めて自分の言葉が強いことを自覚した。反省して言葉を選ぶようにしたら、今度は遠慮しすぎでハッキリしろと怒られたり、紆余曲折あって今はだいぶマシ…だと信じたい。加減って難しい……(私がヘタすぎるとも言う)。

 

何にせよ、若い時に自分が選んでいる言葉や考え方は人を傷つけるかもしれない、っていうことに気がつけて良かったなと思う。ちゃんと言ってくれた友人に感謝だ。

今でも油断するとすぐ口は悪くなるし、「は?なんで?」って思っちゃうこともたくさんあるけど、反射的に言葉にしないで一旦飲み込むことができるようになったのは大きい。だからこそ、賛同できない意見と対峙した時すぐに言葉が見つからなくてぐるぐるしてしまうという別の悩みもできたが…。

 

少し話が脱線してしまったが、とにかく私が言いたいことは、他人の考え方を理解することはできなくても、自分と違う意見があることを知る努力はすべきだし、考え方が違うことを攻撃して良い理由にしてはいけないということだ。その考え方が「正しいこと」だとしても。攻撃しているつもりじゃなくても、言い方次第で傷つけることは往々にしてあるから、口に出す言葉はよく考えないといけない。

当たり前だろと言われるかもしれないが、私はその当たり前ができていなかったことがあるから、こうして書いてみた次第。

 

 

読んでいただきありがとうございました。

おそらくここまで読んでくださった方は、きっと言葉を選んで発言できている人だと思う。ぜひこれからも続けてほしい。私も頑張る。

私が乙女ゲームをやらない理由

 

乙女ゲーム」というジャンルに馴染みはあるだろうか。

乙女ゲーム」とは、女性向けの恋愛ゲームで、主人公(プレイヤー)が女性のゲーム全般のことを指す。

1994年に発売されたスーファミ用ソフト『アンジェリーク』がその元祖とされ、2002年に登場した『ときめきメモリアル Girl's Side』でジャンルが確立したと言われている。私がこのブログで何度か話題にしている『うたの☆プリンスさまっ♪』シリーズも数ある乙女ゲームの一つだ。

 

 

さて、私はこの「乙女ゲーム」というものをプレイしたことがない。

まごうことなき夢女である私が、乙女ゲームに登場するイケメンたちにハマらないわけがないし、それを分かっている友人たちは「何故やらないのか?」と聞く。その度に色々理由を挙げるのだが、自分でもコレだ!という明確な答えを出してこれなかった。奥歯に何か挟まっているようなもどかしさがある。

そこで今回は「なぜ私が乙女ゲームをやらないか」について考えてみたい。

 

 

 

まずは「なぜやらない」を考える前に一度、私が乙女ゲームにハマりそうな理由を考えてみよう。

 

①ストーリーを進める楽しさ

筆者はRPGが好きなのだが、何故RPGが好きなのかと言うと、ストーリーを追う楽しさがあるからだ。元々読書が好きなので、物語に沿って進んでいくゲームにハマる傾向がある。その点、乙女ゲームもストーリーを進めていくという点でハマれる余地がありそうだ。

 

②好きなキャラクターとの恋愛が楽しめる

そういうゲームなのだから当たり前なのだが、キャラクターとの恋愛が楽しめるのが乙女ゲームの醍醐味である。普段マンガやアニメのキャラクターに恋い焦がれ、いわゆる「夢」ジャンルを渡り歩いた私が、恋愛ゲームにハマらないわけがない。

 

③とにかく顔が良いキャラクター達

恋愛をするゲームであるため、攻略対象のキャラクターはとにかくイケメン揃いだ。人間中身が大事なのは大前提として、なんやかんやでイケメンにテンションが上がる自分がいるのも否定できない。

 

④とにかく良い声

何を隠そう筆者は声フェチである。豪華声優陣のいわゆる「イケボ」がとにかくたくさん聞けるゲームなんて、やらない方がおかしい。イケボからしか得られない栄養がある。やるしかない。

 

 

 

さて、これだけ筆者にとって「やらない方がどうかしている」要素が揃っているというのに、プレイしたことがない。実況動画などを見るのは楽しいのだが、どうにも自分でやろうという気は起きない。なぜか。

 

 

①一途ゆえ

せっかくゲームを買ったなら、隅から隅まで遊び尽くしたいのが筆者(貧乏性)の性。しかし、乙女ゲームというのは各キャラクターの「ルート」が存在しており、遊び尽くそうとすれば全てのキャラクターと恋をしなければならない。そこにどうしても引っかかってしまう。

さまざまな好みのプレイヤーを想定して、個性豊かなイケメンたちが揃っているわけだが、中にはまったく好みじゃないイケメンもいるだろう。そうすると、全然触れることのないキャラクターも出てきてしまうことは容易に想像ができる。全てのキャラクターのストーリーを見てみたいのは山々だが、私が愛を注げるのはそのうちのただ1人。せいぜい2人が限界だ。愛なくストーリーだけ追うのはゲームの本質と離れてしまっていると思うので、それだけは絶対にやりたくない。

ゲーム内主人公に自己投影せずにプレイすれば良いのだろうか……でも投影しちゃうよな……。

 

②好きな人に嫌われたくない

乙女ゲームは会話の「選択肢」によって、相手キャラクターとの関係が進展したり後退したりすることがある。筆者は、どうせやるならゲームを周回してこの会話パターンをすべて読みたい。そういうプレイヤーは結構多いのではなかろうか。

(ちなみに筆者はダンガンロンパシリーズで会話パターンをすべて記録していたことがある。)

しかし、ここで問題が発生する。会話パターンを見たいからといって「不正解」を選んでしまっては、好感度が下がるということだ。いや、むしろそれ以上に、がっかりした反応が返ってくることに私は耐えられる気がしない。

筆者は比較的「オラオラ」していたり、「ツンツン」しているキャラクターを好きになる傾向があるので、そういうキャラクターに「不正解」を突きつけたとき、どんな反応をされるのか恐怖でしかない。こういう奴らは、やんわりたしなめるとかそういうことができないのだ(偏見)

会話パターンをとにかくたくさん見ることでキャラクターの解像度は上がるので、ものすごく読みたいのだが、傷つきたくない気持ちが勝ってしまいそうだ。

 

 

①と②の理由を踏まえると、ゲームを「遊び尽くしたい」という気持ちと、「キャラクターに向ける愛」の折り合いのつかなさが、筆者にとってかなりの障壁になっている気がする。

 

なるほどね。だんだん自分の考えが整理できてきた。

実況動画は自分がやっているわけではないから、少女マンガを読んでいるような感覚で楽しめるということか。

 

 

③「胸キュン」シーンで決壊する

乙女ゲームにおいてなくてはならない要素。それが「ときめき」である。好きになったキャラクターからの好意が滲むセリフ、仕草、表情、声色、そのすべてが乙女ゲーム乙女ゲームたらしめる。

そうした「ときめき」が爆発している「胸キュン」シーンは、あまりにもきれいな感情すぎてアラサー女には眩しすぎる。何というか、他人から好意を向けられることに対する耐性がなさすぎて、そういうシーンで過剰に“きゅん”としてしまい、「あ゙~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!」と心の中で叫ばざるを得ない。要は正気を保てないのだ。

(ちなみにどのくらい人からの好意に不慣れかというと、結婚式に招待してくれた友人に「呼んでくれてありがとう」と言ったら「あなたは必須でしょ」って当然のように言われて泣くくらい。)

実家のリビングで恋愛ドラマを見ていても、そういうシーンになればなるほど饒舌になってしまう筆者なので、実況動画で茶化してくれるくらいがちょうどよく乙女ゲームを楽しめるのだろうな。

もしかして、誰かと一緒ならプレイできるのかも???

 

 

 

結論。

ゲームに対してもキャラクターに対しても愛が重すぎる!!!

書いてて自分で自分が超めんどくせぇなって思った。好きなもののこと語る時、本当に激重クソでか感情抱きがちすぎる。もっとラフに生きたいぜ、まったく。

一通のメルマガから感じた、時と心の移ろいの話

 

推しがいる人の多くは、チケット販売サイトを利用したことがあるのではないだろうか。イベントやコンサート、ライブのチケット購入、あるいは抽選申込をするのに欠かせないツールだ。

そして、このチケット販売サイト、ところによっては一度購入したものに出演していた方をお気に入り登録できたりして、登録しておくと出演情報などをメルマガで教えてもらえるサービスがあったりする。

 

さて、私もそんなチケット販売サイトを利用しているのだが、今回は、先日、件の推し※の情報が届いた時の話をしたいと思う。

※推しについては過去記事を参照のこと

 

届いたのは、とあるアニメの第2シーズン制作にあたっての舞台挨拶の情報だった。

私は心の中で「あ、そうなんだ」と思って、メールの画面を閉じた。

閉じてから少し間を置いて、自分自身にショックを受けた。

推しに対して、以前ほどの熱い感情がなくなってしまったことを自覚したからだ。

 

あんなに推してて、結婚した時はロスになって、燃えた時はかき乱されたのに。燃えてしばらくしても、嫌いになれたら楽なのに、好きだった気持ちが忘れられなくて辛いとか思ったし、そんなやや重めの少女マンガに出てくる女の子が抱いているような感情が自分にあったのかと驚いたりもした。ちょっと落ち着いてから当時のブログや、書き殴った日記とかを見返すと、あまりのクソデカ感情にすごく恥ずかしくなる。

 

色々なことがあったけど、推しの人間性はともかくとして、推しの仕事(作品)は好きだから、やっぱりまた見たいなと思う。けれど、あの頃のような震えるほどの熱い気持ちは、もう戻ってこないのかもしれない。そう思ったら悲しくなった。

推しを推していた時が、私のこれまでの人生で一番狂ってて、最高に活き活きしていたと言っても過言ではない。

 

100年の恋も冷めた!というくらい、ある時点でスパッと感情を切り替えられていたらこんな風にはならなかったと思うのだが、時の流れの中で自分がいつの間にか変わってしまったことに、少し、動揺する。

人の心というのはそんなものなのか……。そういうものなのか……。

 

推しが燃えたのが2年前なので、私がこの状態になるまで丸2年かかったということになる。これは長いのか、短いのか……どうなんだろう。

 

私生活ではこの2年で色んなことがあった。生活スタイル、仕事のやり方、見るアニメ、読む漫画・小説、出かける場所、好みの服……たくさんの変化があった。世の中だってこの2年で色んなことが変わった。そう思うと、目まぐるしく変わる世界の中で、変わるのに2年っていうのはかなりかかっているように思うし、自分が自覚している以上に大きな感情だったのだろう。

それでもいつかは変わっていく。

「時間が解決してくれる」とはよく言ったものだ。

 

私はいつの間にか、ちゃんと前を向いて歩き出していたのかもしれない。

 

 

 

 

(余談)

私が以前読書レビュー(と言えるのか?)を書いた『推し、燃ゆ』の文庫版が発売と相成った。推しが燃えたファンの感情を知りたい方にぜひ読んでほしい。

 

 

『推し、燃ゆ』の話はこちらから→「推しが燃えた私が『推し、燃ゆ』を語る」

心臓は握り潰さず 握っているという選択

昨年11月に発売された、LiSAのアルバム『LANDER』。

10周年を経て新たな一歩を踏み出す、そんな覚悟や意気込みが感じられるアルバムだ。

 

その中に収録されている『悪女のオキテ』について、少し語りたい。

(本当は一曲一曲語ろうと思っていたのですが、『悪女のオキテ』への思いが強すぎて思ったより長くなってしまったので、この曲だけにしました。)

 

 

この楽曲は、LiSAさんがアルバム楽曲をつくり終えた際に「まだ吐き出し切れてないな」と思って追加で作られたそう。

さまざまな思いを込めに込めてつくられたこのアルバムで、吐き出し切れていない気持ちとは一体何だろうと思い聞いてみると、なるほど、これは確かに吐き出し切れていない。

 

「ピー…ガガガ…」というノイズから始まるイントロ、そして出だしの歌詞2フレーズ。

「あぁね 弱いオチだわ 涙の釈明 落ちないファンデ」

「なんで被害者様?戦の庭においでませ」

ここまでで私は「あの件(※)」か……と察した。「おいでませ」がハイパーキュートボイスなのがまた怖い。

 

※この楽曲の背景について、コレについて描いたと明言されているわけではありません。聴く人それぞれの解釈で聴いて良いと思います。私は、私が当ブログに何度か書いている“推し”の件であると解釈しました。以降、その解釈を前提に展開します。

 

 

楽曲というカタチで思いを吐き出すのは、流石アーティストだなと思うし、そうやって私たちファンの目に見えるカタチで示してくれてうれしく思う。少なくとも私はうれしかった。

アルバム発売後のインタビューの中でLiSAさんが「気持ちを音楽にして遊ぶことで、イヤだったこともスッキリする」という内容のことを話していて、なるほど、それで曲をつくったのかと納得した。

 

 

今まで、「あの件」に関して全然言及しないなぁと気にはなっていた。ただ、LiSAさんがネガティブな発信をするイメージが微塵も湧かないから、あえて言わないんだと理解する自分もいて。

家庭内の問題に他人が口を出すものではないとは思うけど、心配なことは心配だった。いつだって元気をくれるLiSAさんが大好きだけど、負の感情を押し殺してポジティブを発信しているのだとしたら、それは苦しいな……と、ファンの一人として思ってしまったり。

 

たとえファンであろうと何だろうと、一ファンの私は「あの件」に関して完全に部外者で、思い悩んだり怒ったり悲しんだりするような立場ではないと思うけど、それでも、この曲で私は救われた。

本人が怒っていないのに怒るのは違うとか、本人が何も言っていないのに外野がとやかく言うのは違うとか、頭では理解しつつも気持ちに蓋をして我慢している部分もあり、ファンなりにモヤモヤしていたのが、作品として、彼女が何を感じ、どう消化し、昇華していくのか、強気なサウンドと、感情爆発の歌声とで提示されたことによって、「LiSAがこう言うのだから」と、私なりの指針ができた。私は、LiSAさんの受け入れ方、乗り越え方、進み方を尊重したい。

 

この曲の最後

「心臓は握り潰さず 握っててあげる」

私はこの一節がとても好きだ。

怒りにまかせて握りつぶすのは簡単かもしれないけれど、あえてそうはせずに握っておく。その意図とか、どういう気持ちなのか、想像が膨らまないか。その余韻が不穏で、最高にカッコイイ。

 

 

余談だが、カラオケでこの曲を歌ったら採点機能AIから「思いが先走っています」と評された。これはもう仕方がないだろう。たぶん直らない。

 

 

そんなこんなで、この『悪女のオキテ』が収録されたアルバム『LANDER』を連れてくるであろう次のライブは絶対に行きたいなぁ……と思っていたら!なんと当選……!なんたる幸運!運命!神が私に味方している…!(筆者は無宗教

筆者はサッカーファンでもあるので、FIFAワールドカップのイメージソングとなっていた『一斉ノ喝采』が聴けるのもうれしい。

 

ライブで一緒に発散するのが今からとても楽しみだ。

 

 

(参考)WEBザ・テレビジョン「より強く、より熱く、より豊かな音楽に。アルバム制作を経て見えたこと――LiSA『LANDER』インタビュー」

https://thetv.jp/news/detail/1111765/

意志がこもってるとか、こもってないとか

絵を描くことも写真を撮ることも好きだけど、私が描いたり写したりする1枚には、「世界」が無いんだなぁって、ふと思った。「世界」なんていうと大げさなんだけど。

 

仕事でプロのカメラマンさんと接する機会があって、その人の仕事を見たり、話を聞いたりしていたら、いかに自分が、何となくで作品(と呼べるほどでもないのだが)を作っていたかがよく分かった。

自分が今まで作っていたものって、何となく形にはなっているけど、本当に形になっているだけで、何かを伝えたいとか、そういう意思がまるでない。

だから上手くならないんだろうなぁ。

 

万人を感動させたい!とか、そんな大それたコトを考えているわけではないのだが、ちょっとくらい誰かに刺さるものを作りたい気持ちもあるわけで。

 

その点、このブログは想いがいっぱい詰まっている。形になっているかは別として、伝えたいこと……というより、言いたいことや吐き出したいことが明確にある。

だから、多少なりとも読んでくれる人がいるんだなぁと、当たり前のことに遅ればせながら気付くという……

 

当たり前のことなのに、気付いていないことって、他にもたくさんあるだろうな。

色んなことを見逃さないように、気付けるように、日々を過ごしたいものだ。

 

そして、そんなどうでもいい事も、このブログには書いていけたらなと思う。